シンちゃんの教育理論
「運命の法則」(2008/2/4 new!!
今日は立春。これから毎日、日々新しい「何か」を発見したいと思います。勿論、「体験」が一番なのですが、なかなか、そうもいきませんので、毎日、本屋に立ち寄って、気になった本をご紹介したいと思います。勿論、発見できない日もありますが、その日はお休みということで。
今日、ご紹介する本は、
「運命の法則」(天外伺朗著:ゴマブックス))です。テーマは「幸運の女神と付き合う法則」です。著者は元ソニーで「AIBO」等を開発した科学者の方です。サブタイトルは「幸運の女神は意図的に招きよせることができる!」と表紙裏に書かれています。
「まえがき」から少し抜粋しましょう。

多くの人は「運命」に翻弄されて人生を送っていく。
その神秘に満ちた「運命」は、必ずしも偶然の産物ではなく、どうやら何らかの「法則性」がありそうだ!というところから本書はスタートする。
それに対して、「うん、そうかもしれないな」という人と、「そんなバカな!」と反発する人と、両方いるだろう。「そうかもしれない」と思った人の多くは、何か目に見えない大きな力のはたらきのようなものを経験したことがあり、その中にほのかな法則性のようなものを感じていたのではないだろうか?それをしっかりと確認すれば、今後の人生がより豊かで力強いものになっていくだろう。
「そんなバカな!」と思った人は、おそらく、世界を理性と論理の視点のみでとらえている合理主義者で、「運命」などというあやふやなものに囚われず、自分の人生は自らの努力で切り拓くべきだ、と信じている人だろう。
たしかに、今の世の中では、科学的にきちんと解明されていること、あるいは論理的にきちっと説明できることのみを「正しい」とし、それ以外を「迷信」としてバッサリ切り捨てる、という風潮が表面を支配している。
したがって、「運命の法則」なるものに対して「そんなバカな!」と思う人はきわめて多いだろうし、むしろそんな人の方が常識的であると周りからは判断される。
本書の基本的なスタンスは、そのように一般常識で切り捨てられ、排除されたものの中から、ドキッとするような真実を拾い出し、皆の目にされしていくところにある。
私が半生をかけて発見してきた、さまざまな「運命の法則」をこの中で味わっていただき、人生の達人になるための道標として役立てていただければ幸いだ。
本書の姉妹編に『宇宙の根っこにつながる瞑想法』がある。ともに「いかにいきるか」がテーマだが、本書が理論編、そちらが実戦編という感じになっている。あわせて参照されたい。

私は幼い頃から現在に至るまで、短い、といっても物心がついてから約半世紀近い人生の中で、何か目に見えない大きな力のはたらきを要所要所で感じながら、これまでの人生を生きてきました。私は、残念ながら未だその中に「法則性」のようなモノは感じていませんが、だからこそ、本書によって著者の感じたモノを本書を通じて知りたいと思いました。
皆さんも是非、一緒に耳を傾けて見ましょう。
教育って、一体、何でしょうか?(2008/1/21 new!!
私自身、確かな「教育学」についてレクチャーを受けたことはありません。物心がつくかつかないかの幼少期、私はクリスチャンの両親の影響でミッション系の幼稚園に通うようになり、いつしか「賛美歌」を身近に感じるようになっていました。
このようなピュアーな世界とは裏腹に、現実の世界では小学校時代から人間の「汚い」部分をイヤというほど肌を持って経験しました。京都市という「古都」のイメージからは程遠い、暗い暗い陰を京都の街は私に与えてくれました。
そして、4年生の二学期も終わろうとする頃、京都市郊外の宇治市の新興住宅地に転居することにより、この束縛(呪縛?)からやっと解放されました。
そして、仏教精神の漂う奈良市の、東大寺の境内にある中高一貫校「東大寺学園」に通うことにより、個性溢れた、優秀な恩師、学友と交わることにより、様々な事柄を学びました。
また、この時期にルソーの「エミール」を読んで少なからず教育の大切さを感じました。
しかし、私の場合は中学2年生に不慮の事故(?)により右手小指を複雑骨折し、その時に飲んだ薬の副作用により(?)腎臓を患い、本当に辛い辛い中学3年生、高校1年生を経験しました。
詳細は省きますが、この「ドン底」から這い上がる中で、私は仏教伝道師である紀野一義氏によって「仏教」を学び、遠藤周作氏によって「キリスト教」を学びました。
そして、フランスの分子生物学者でノーベル医学生理学賞受賞者であるジャック・モノー氏の著書「偶然と必然」によって神の存在について改めて深く考えさせられました。
その後、大学、大学院と学ぶ機会はいくらでもあったのですが、余りにも「本能に忠実な生き方(?!)」をしてしまい、大学での研究に半ば失望し、志半ばで民間の企業に就職したのですが、研究職とはいえ、理想を貫いて生きていくには余りにも大きな社会の現実の壁に押しつぶされ続けた人生でした。
そして、40歳を過ぎてから、ふと立ち寄った教会で不思議な魅力を持った牧師、松本氏に出会い、洗礼を受けることになりました。讃美歌に親しんだ幼稚園時代から、既に40年もの月日が過ぎていました。
地位も名誉も無い私が、しかも未だに煩悩に支配されている人間が、畏れ多くも「教育」について語る資格があるかどうか分かりませんが、私にしか生きられない、私が生きてきた証の人生について少しだけ語らせていただきたいと思います。

今日、ふと見かけた、あるミッション系の女子高の案内に次のようなコメントが書かれていました。
「木立に響く賛美歌の声」
「創立以来の歩みの中で、常にキリスト教(プロテスタント)による人格教育が行なわれている。それは、激しく動揺し、価値観が変化する現代社会の中で、どのような困難にも打ち勝って、明るく前向きに生きる人間の育成を目指した教育方針に現れている。」
「英語教育の充実をはじめ、確かな学力を身に付けさせ、進路・適性に応じた指導を心がけ、基礎学力の養成に努めているのが本校の教科教育の特色である。」

東大寺学園には東大寺学園の、サントリーにはサントリーの、大上段に構えた「校是」「社是」あありました。
しかし、京都大学には、このようなモノが見当たりませんでした。
ただ、思い出深い京都の街には、様々な想い出が詰まっています。
徐々にお話したいと思います。